
| 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 輸血拒否事件 |
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| 1. | 高裁は輸血拒否を認めたのか? | |
| 2. | 輸血拒否をめぐる議論(続) | |
| 3. | 日経メディカル98年10月号への意見 | |
| 4. | 「無輸血手術」(大鐘稔彦 著 さいろ社) への感想 |
| 1. | 高裁は輸血拒否を認めたのか? | |||
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「エホバの証人」の輸血拒否はすでに世界中の医療現場で混乱を招いている。輸血拒否が直接の原因で命を落としたとされる事例が日本だけでも100例を越えているとも言われる。問題は「エホバの証人」たちだけにとどまってはいない。 親の信仰のために子どもを犠牲にしてよいのか、輸血拒否のために過失傷害が過失致死になることもある。治療に当たる医者はどう対処すればよいのか。自己決定か、命か、どちらが優先されるべきなのか? この問題は完全に社会全体を巻き込んでいる。 「エホバの証人」は免責証書を用意し、「万が一不幸な結果になっても責任を追求しない」と、頑なに「絶対的無輸血」を唱える。これに対し、良心的な医者たちの大部分は、輸血拒否の意思は十分尊重するが、命が危ない場合は輸血もやむを得ないとする「相対的無輸血」の立場をとる。 「エホバの証人」にどう対処するかは、医者によって様々である。善意の医者たちは説明して納得してもらおうと努力する。上手な医者は「輸血の可能性はまずない」とお茶をにごす。そう説明されると「エホバの証人」も、無輸血を100%保証してもらうために振出に戻って新たに別の病院を探そうとするよりも、納得して承諾することが多い。 患者の自己決定が絶対視されるような風潮になってから、いくつかの医療施設で、「絶対的無輸血」の自己決定を認め患者が死亡しても担当医の責任を問わないという指針を打ち出している。これは患者の命よりも自己決定権を優先するという立場を明確にしたものである。そのような指針は、なるほど考えることを避ける医者には役に立つ。しかし現場に直面する医者たちの多くは悩む。医者であるなら、患者の命を救うのが努めである。医者たちは法廷の判断に期待する。 「エホバの証人」患者が、輸血拒否の意思を無視されたとして医療者側を訴え争ってきた裁判で、この2月、二審の東京高裁は判決を下した。新聞各紙は時流にのってあたかも「輸血拒否の自己決定」を全面的に認めたかのように報じた。 しかし実際の判決理由は、「絶対的無輸血」の医療契約は成立しうるとはしているが、結論は説明義務違反である。輸血の可能性を説明せず、承諾のないまま輸血を行ったことを罪としているに過ぎない。これは原告がたとえ「エホバの証人」でなくても同じことである。そういう意味では二審は「自己決定か、命か」の究極の判断を避けたと言える。 東京高裁は「絶対的無輸血」の医療契約を受け入れるかどうかは医師に委ねられるとし、また、患者の自己決定権は絶対ではなく、公序良俗に反しない限り、と釘をさしている。 「エホバの証人」は永遠の命を信じている。しかしそのために助かる命を犠牲にすることは、第三者の目からは自殺行為にうつる。それを認めるなら、医者という職業は否定されることになる。医療も法律も現世のためのものである。信仰の名のもとに現世を否定することが認められるのはおかしい。 現実には輸血拒否が真の自己決定であるかどうかが問題である。「エホバの証人」たちは、キリスト教の各宗派と違い、聖書を厳密に解釈すると言うが、その彼らの解釈も、時代と共に変遷してきている。20世紀前半までは明確に輸血を賛美していたし、臓器移植に関しても拒否から是認へと180度の解釈の変更をしている。 今彼らは、輸血は認めないが骨髄移植は構わないとしている。骨髄移植とは骨髄血を輸血することである。どのようにしてこのような解釈が成り立つのだろう。これらの決定は、平均年齢が80歳を越える高齢の幾人かの幹部たちによりニューヨークの本部でなされている。「エホバの証人」の戒律とは、これら幹部たちの決定のことである。それは明日変更されるかもしれない。そんな決定に命を預けることが、本当に自己決定と言えるのだろうか。 「エホバの証人」は戒律に絶対服従であるという背景も併せ考えなければならない。戒律にそむけば背信者としてあらゆる制裁が待っている。背信者に対してはその瞬間から一切会話をしてはならない。たとえ家族でも悪魔の手先として、挨拶もしなくなる。これはその社会で生きてきた者にとっては何とも恐ろしい仕打である。その恐ろしさを叩き込まれているから、信者たちは無意識にも戒律に忠実になるのである。戒律に忠実であるということは組織に忠実であることである。 「エホバの証人」の患者たちよ、神は不運な患者をいたずらに苦しめようとするはずはない。組織の決定に自己を委ねるのではなく、真摯に考えてくれることを願う。 (名取春彦 KH通信 74号 98/7/27) |
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| 2. | 輸血拒否をめぐる議論(続) | |||
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KH通信 第74号を配布後、「これでは一方的だ。」と、「エホバの証人」の地域の長老と呼ばれる方から申し入れがあり、話し合いが持たれた。「長老」の話とは要約すると内容に抗議するというのではなく、この文章では説得力はないという批評であった。 「社会全体を巻き込んでいるというなら、新聞テレビでどれだけ取り上げられたかという証拠を示すべきである。問題にしているのはエホバの証人たちを攻撃する人たちだけだ。」と真面目に言われれば、認識の違いにただおどろかされるばかりである。 「私たちは社会の理解を求める努力はしている。輸血拒否の問題の理解を深めてもらうために医療専門の担当者もいる。積極的に話し合いには応ずる」としていた。その姿勢が本当なら十年以上に及んで医者たちに存在する疑念は生まれなかったはずである。 終始自分たちの主張を理解してもらおうという姿勢は十分感じられたが、その一方では混乱する医療現場を理解しようという姿勢は希薄に感じられた。医者たちの苦悩に関しては質問も共感もなく、「エホバの証人」の医師や彼らに理解を示す医師たちを引き合いに出され、我々をもっと理解してほしいと主張するばかりであった。 「エホバの証人」たちは、彼らを理解しようとする人にはとても好意的で、疑問を投げかければそれに応え、「これを読めば疑問は解決される」と次々と彼らの出版物を提供する。しかし、理解しようとする者の行き着く先は必ず彼らの信仰の根本的なところに帰結する。彼らは理屈ではなく、神の命令だから輸血拒否するのである。そこまで理解できたなら当然、「エホバの証人」となって彼らと行動を共にすることになる。彼らの話し合いとは信者拡大の布教活動と同じなのである。 話し合いの場で、少しでも彼らの主張と相いれない意見を言おうものなら、たちまち敵対者たちの意見だと反射的に拒否されてしまう。彼らは主張はするが人の話は聞かない。お互いの不信に対する彼らの解答は、世界中の人が全員「エホバの証人」の理解者になるべきだということである。 マスメディアが「輸血拒否」を問題にしていないはずはないし、医療者が話し合いを拒んでいるはずもない。公開シンポジウムなどに出席を要請しても拒否するのは「エホバの証人」たちである。「エホバの証人」たちは自分たちの主張が取り上げられるなら話し合いに応ずるが、主張が受け入れてもらえないとわかれば拒否するのである。このことは多くの団体やメディア関係者から共通して聞かされる。「エホバの証人」を批判する人たちを、彼らは悪魔の使いだとして、話を聞くことも書物を読むことも禁じられているのである。 社会全体を巻き込んだ事件としては、1985年の「大ちゃん事件」がある。ダンプに両足をひかれた10歳の少年は救急車で聖マリアンナ医大に運ばれた。ところが「エホバの証人」の両親が輸血を頑なに拒否したため、少年は命を失ったとされている。この事件はマスコミも大々的に取り上げ、社会に問題を提起した。 担当医は輸血を強行していれば100%助かったと断言する。医者たちだけでなく、現場の警察官までもが必死で説得にあたった。憤りのあまり医者をつかまえて「輸血を強行しないなら告訴するぞ」という言葉まで出た。 結局、両親も医者たちも罪は問われず、加害者だけが業務上過失致死罪を申し渡され、それに服した。監察医は「輸血をしても助けることはできなかった。」とし、警察も検察も裁判所もそれに疑問を挟まなかった。 宗教が絡むと問題はこじれる。誰もこの問題を掘り下げようとはしなかった。マスコミの話題からも消えた。しかし医者たちはそうではなかった。医者たちは、明日再び同じ局面に立たされるかもしれないのである。 事件に直接関わった医者たちは、今後は輸血を強行すると固い決意を表明した。事件の二日後、聖マリアンナ医大としての今後の指針が出された。「説得に最大の努力はするが、最終的には宗教よりも患者の命を優先させる」と、明確に態度が表明された。 今後、「エホバの証人」はそれを心得て病院を選択するだろう。土壇場で輸血が強行されても、道義的に許されるだろうし、法的には弁明の根拠になるだろう。各医療施設は同じように態度を表明することが要求される。 救命救急センターにいる医師たちは、重症患者を自分自身の家族とだぶらせ、涙を流しながら、かすかな可能性にかけて奮闘している。そうした医者たちに「エホバの証人」たちが輸血拒否を理解してもらおうと積極的に努力したという話は聞かない。 二月の高裁判決内容をさらに掘り下げたい。「エホバの証人」が輸血を拒否するのは、物理的に他人の血液が取り込まれることよりも、神の命令に背くということが本質である。だから臓器移植で血液が混入することも問題にしないし、牛肉に含まれる血液も問題にしない。彼らにとっては、骨髄は臓器だから骨髄血の輸血は輸血ではなく臓器移植なのである。理屈ではなくただひたすら神の命令に忠実であろうとするのである。したがって彼らにとって大切なのは、輸血拒否そのものよりも輸血拒否の意思表示である。だから、意思表示の機会なく輸血を受けてしまった「エホバの証人」を、汚らわしいとして排斥することはない。 このことを知っている医師なら今回の高裁で裁かれた被告医師たちと同じように、患者に偽ってでも輸血を強行するという行動をとるであろう。原告が訴えなければ問題にはならなかった。 原告が問題にした「自己決定の機会を奪われた」というその被害とは何であったのだろう。患者として、輸血拒否の意思表示はしていた。神の命令には背かなかった。原告が訴えるのは、物理的に輸血されたという苦痛と、輸血拒否の自己決定の機会を奪われたという、インフォームド・コンセントの論議である。これらは彼らの教義からはどうでもよいもののはずである。 裁判で争われたのは教義を離れた自己決定権の論議であった。彼らは自分たちを正当化するときだけ社会共通の理屈を振りかざし、都合がわるくなると信仰を持ち出してくる。 被告医師たちにも、一般には宗教とは呼ばれないが「患者の命を何よりも大切にする」という立派な宗教がある。こちらの教義は輸血拒否の教義よりも遥かに多くの人々が信奉し、社会が是認する。裁判の争点は宗教論争だったはずである。 もし医者を全面的に信頼して、命を救ってくれと頼むなら、医者はあらゆる努力も惜しまない。到底回復の望みがないと思われる患者でも集中して徹底的に手を施せば回復に向かうといううれしい事例はいくらでもある。 ところが、インフォームド・コンセントは逐一患者か家族に治療内容、治療の見込みなどを説明し、同意しなければ処置を行ってはならないとする。 輸血の説明同意の義務もそこにある。医師は同意なく輸血をすれば罰せられる。同意を求めて説得している間に時間が流れ、助かる患者も助からなくなる。 高裁判決は医者たちに「承諾なしに治療するな」と言っている。しかし、現場ではすぐ隣に患者を受け入れる別の医者が待機しているのではない。始めから態度を周知させていたとしても、重体患者は運び込まれるだろう。たらい回しはそれでなくても避けなければならない。「治療するな」とは「患者を見捨てろ」と同義である。高裁はそれを医者たちに迫っているのである。みすみす助かる命を放置していれば医師は罰せられる。自殺幇助も罪である。高裁判決には疑問ばかりが残る。 特異な教義を信仰し、特殊な生き方をするエホバの証人が、普段は一般人と区別はできない。間違って事故に巻き込まれた無関係な人に対しても、彼らは彼らの教義を押し通そうとする。それなら、エホバの証人たちも、日頃から一目でそれとわかるようにユニホームを着用し、誰からもわかるよう目立つ看板を付けて自家用車に乗るべきだろう。 それでも、「エホバの証人の車だ。ぶつかっては面倒になる。」とわかっていても、事故は予期せずして起こるものである。共に生活を営めば、価値観の違いがぶつかり会う場面は必ず生じる。 もし共通の生活を維持したいのであれば、彼らは一方的に教義の正当性を説くのではなく、お互いの立場を尊重し妥協点を見つけるべきではないだろうか。「エホバの証人」の要求は自分たちの我を通そうとする甘えなのである。それができないのなら共通の場で生活をすることは無理である。あくまで教義を押し通すなら、独自の社会をつくりそこで隔絶した生活してもらうしか道はない。 「エホバの証人」たちが礼儀正しく、奢らず慎ましく助け合って生活をいている姿に対しては無条件に賛美したい。だからこそ医者たちの苦悩も真面目に考えてもらいたい。 「エホバの証人」たちは、神の命令にさえ従っていれば誰もが楽園に行くことができるとして、選挙も政治も否定し、自分たちに対する批判を拒絶する。社会を否定する教義を社会が容認しているから問題が噴出するのである。ところが、学者も評論家もマスメディアも、政治家も警察も、裁判所までもが、面倒な宗教問題には触れたがらない。 ( 名取春彦 KH通信 75号 98/8/19) |
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| 3. | 日経メディカル98年10月号への意見 | |||
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日経メディカル10月号を読んで愕然としたのは、「エホバの証人」の輸血拒否訴訟の二審判決に対する解説記事です。筆者の浅井登美彦氏の解説と主張は、かなり一方に片寄っているように思われます。 法律家や弁護士はどうしても訴えを起す患者の立場に立つのは当然で、医療は患者のためにあるわけだから、それはそれで仕方がないのですが、彼による二審判決の解釈を普遍化すると、「自殺行為も手をこまねいて見ていなければならない」など、様々な混乱が生じることが予想されます。 大手新聞もそろって同様のニュアンスで大きく報道しましたが、これは風潮に逆らってはいけない、という無意識の意識が働いているようで、行く末を恐ろしく感じます。 医療現場で直接多くの患者に接する医師たちには切迫したものがあります。関心が高いだけに、判決理由は、主観的な解説抜きにそのまま掲載すべきです。 高裁は、自己決定権を尊重しなければならないということを強調していますが、また同時に、自己決定権が絶対的権利ではないということもきちんと押さえています。 この判決理由をきちんと読めば、今回の判決の理由は、自己決定権の侵害にあるのではなく、単に説明義務違反だということがわかります。賠償額の少なさはその結果です。 それでも、現場の医師たちの間では混乱が起きています。この判決どおりにやれば、みすみす助けられる患者も、約束を守るために見捨てなければならなくなるのです。 自殺幇助も立派な罪です。 「輸血するくらいなら死んでもかまわない」といって、ほんとうに死んでいく患者を目の前で見たなら、正常な神経の持ち主の医者ならなら、うそを言ってでも救いたいと思うのが当然です。また、医師はそうあるべきだと思います。 人には、自殺の権利はないし、自殺につながる自己決定倦は認められないのです。 評論家や弁護士たちは、この機とばかりに、自己決定権の重要性ばかりを強調します。浅井氏もその一人だと思います。マスコミもその潮流に同調します。 高裁がくどくどと自己決定権について述べているのは、そうした潮流をも理解をしているということを示したに過ぎません。それを、自分たちの都合のよいように解釈して、そうした解釈を一般に報道することに憤りを覚えます。 私自身は、医師として、高裁判決自体にも疑問です。なぜなら、現場の医師たちに対して、行動指針をあたえていないばかりか、かえって混乱させていると思うからです。 願わくば現場の切迫した意見も採り上げてしてほしいところです。 (名取春彦 98/11/10) |
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| 4. | 「無輸血手術」(大鐘稔彦 著 さいろ社) への感想 | |||
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この書は、就寝前に走りだけをと思って読み始めましたが、止められず一気に読み負えてしまいました。主張されていることに対してはどれも共感し満足するのですが、読後、全体を通してどうしても不満が残ります。 「エホバの証人」患者たちを決して見捨てることなく、患者として扱い、彼等の要求を医療者として可能な限りかなえようと努力を惜しまなかった著者には敬意を表します。それが無輸血手術67例という形で結実したのだと感動を覚えます。 現場の医師としての思考の交錯は臨場感にあふれるものです。これまで、法律家や弁護士たちばかりが主張し、現場で直接、患者と接している医療者の声がきかれなく、寂しく感じていたところへ、まずは大方は現場の医師の気持ちを代弁するものと思われます。 著者自身が、「エホバの証人」と関わりをもつようになった経緯は、ひょんなことからであり、自分から足を踏み入れたのではないことは、多くの医者たちが、否応なく「エホバの証人」と関わらざるをえなくなることと共通します。真摯な外科医がどのように考え、悩み、解決、努力したかがよくわかり、大きな感動を得ます。 「輸血拒否を自殺行為とは決め付けるのは間違い」という主張も十分理解できます。「荒木大ちゃん事件」が医師たちに突き付けた問題に対して、説得に時間をかけるくらいなら即座に手術に踏み切るべきだったという主張も、なるほどそうだ、と納得します。説得しても無理だと始めからわかっているなら、確かに残された可能性を追及すべきです。 しかしそれは、常識では到底信じられない特異な現実をわかっているから言えることで、逆に言えば、直接体験したり、相当事情を理解していなければわからないことです。始めてそうした現実に直面した医者にそれを要求するのは余りにも酷です。「エホバの証人」という特殊な考えの人たちがいて、説得しても無駄だから説得で時間を無駄にしないように、という現場の常識的医師たちへの「心得」として大いに納得できます。 具体的な現実的対処法としては致し方ないと納得するのですが、それでも問題は決して解決しません。無輸血手術を約束して手術に挑んだとして、もし手術中に出血がひどく、ここで輸血すれば助かる、輸血しなければ確実に死ぬ、という事態に遭遇すれば、そのとき医者はどうすべきか。約束したなら約束を守るべきでしょうが、そのような約束はできないから、医者は悩むのです。著者は幸運にもそうした場面には出くわさなかったから、67例を誇れるのだと思います。 医者のとる医療行為は、医者の価値観、死生観、医療観の直接的に具現したものです。医療において「説得」というものを否定することは、それ自体、医者の医療観の具現です。患者と医師が思いが違う。違ったなら話し合って理解を深めて一致に至ってはじめて本来の医療は存在すると私は主張します。ところが近ごろ流行のアメリカ型の医療観は、医療は商品と同じで、患者は消費者だとしてドライな関係を主張します。 もちろん、これまで日本では患者の意思があまりにもないがしろにされてきた事情や、患者の気持ちを考えない医者が多いという事実も、当然考慮されなければなりませんが、かといって、患者の病気を癒すプロである医者の意見を無視してよい医療が生まれるはずがありません。 患者の自己決定が絶対視されるような風潮では医者たちの中にも、患者の要求に応えるのが医者の務めだと割り切って、あえて「説得」などの介入をしない医者が増えてきました。この著者もこの時代の医者の一人だと理解されます。 そうした考え方が、医療全般に及ぼす弊害についてはここではさておいて、患者の要求どうり応えていても、根源的問題に直面したとき、医者としての良心をまだ持ちあわせる医者たちは戸惑うのです。それが、著者自身がもうこれ以上「無輸血手術」を継続できなくなった最大の原因だと思われます。 ある意味では著者は逃げたとも言えます。主張を貫くなら止めてはなりません。体力の限界を感じたなら、後継者を育てなければなりません。この本の出版はそのための一つの行動なのかもしれませんが、本心はもうまっぴらだ、ということがありありと伝わります。気力の限界とは、その生き方に満足していないことの表われです。 67例を誇りに思うのは外科医の自己満足にすぎません。それは著者自身も述べておられるように、「エホバの証人」の生き方に共感し、彼等の力になろうとしての動機からではありません。しいて言えば、医学の新しい領域への挑戦であったのです。新しい領域を開拓した満足感なのです。むしろ著者は、身勝手な信者たちに嫌悪感すらいだいているのですから。 ここで改めて著者に問いたい。医者の務めは患者の要求に応えることか? 著者はそう理解し、そのように務められました。その結果、期待に応えることができました。それはそれで素晴しいことです。しかし、状況から無輸血手術で救える見込みがないときは、断わってこられました。ということは、その適応基準の線引きが、一般外科医よりもゆるやかだったにすぎません。 始めから手に負えなければ断わっていました。緊急手術ではないから、医者にも患者にも決断の余裕がありました。基本的な考え方は何ら普通の良心ある医者としては特殊なことではありません。患者の無理な要求には応じなかったのです。 私自身はその普通の良心ある医者としての著者の行動をこの上なく賛美したい。輸血拒否の問題に対し、良心のある普通の医者が真剣に立ち向かったその姿が、始めて伝えられたという点がすばらしいのであり、だからこの本が広く読まれて欲しいと思うのです。 可能性を追及することは、無条件に賛成します。医学はどこの領域も不確実です。が、しかし、輸血拒否で命を落としたと言える症例もあるのは事実です。それなら、土壇場でどうするのか。議論は振出に戻ります。そういう点ではこの書も切迫した医療現場の声は代弁していません。 もう一つ、輸血拒否の問題を考えるに当たっては、「エホバの証人」患者の信者でない夫の存在とその主張にもっと目を向けるべきと指摘されたことは極めて大きなことです。それは、医者と患者の関係以上に夫婦の絆は強いはずだし、価値観も共有しているはずだからです。この問題のこれ以上の追及は医者の仕事ではないとして、このテーマの存在を喚起するにとどめたのだと理解されますが、欲をいえば、この問題に誰かが気が付き、さらに突っ込んでくれるようにもっと強く訴えてもらいたかった。 (名取春彦 98/11/25) |