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| 目 次 3.医学の進歩のためといえども 患者の犠牲はあってはならない 2.朝日新聞 くらしの欄 ・インフォームド・コンセント・ に対する意見 1.朝日新聞 6月9、10、11日掲載の 医療不信[上]、[中]、[下]は、患者や医師の苦悩を理解していない |
| 医学の進歩のためといえども 患者の犠牲はあってはならない 名取春彦(02/10/29) 去年、書いた原稿を見つけました。今日でも、重要なテーマだと思われますので、掲載します。 01年4月から5月にかけ、朝日新聞くらし欄で特集が組まれた。テーマは「医学の進歩と患者の犠牲」である。それはある内科医から寄せられた手紙に、朝日新聞が注目したことから始まった。 様々な意見が紹介された。だが、驚くべきことに、「医学の進歩のためには患者の犠牲もやむを得ない」という危険な考えを、朝日新聞は何の抵抗もなく受け入れ、対立意見と同列に紹介している。 危険な考え方を紹介するなら、同時にその危険性を伝えなければならない。数年前の『マルコ・ポーロ』事件の例が呼び起こされる。 雑誌『マルコ・ポーロ』は、ホロコーストはなかったとする篤志家研究者の意見をそのまま紹介し、世界中からその認識の甘さを指摘され、ついに廃刊せざるを得なくなった。 特集の紙面を見る限り、朝日は危険性を認識していない。 朝日新聞は一般の人々の間ではなお絶対的権威である。朝日の感性は、一般の人々の感性となる。このままでは、「医学の進歩のためには患者の犠牲はやむを得ない」という間違った認識が、社会的合意とみなされてしまう。 これは何とかしなければならない。 1.朝日新聞の特集に驚く 朝日新聞は「ある内科医からの手紙」と題して手紙の要旨を紹介した。以下は筆者によるその要約である。 昭和50年代前半、心臓弁膜症の手術を受ければ5人に一人は死亡した。内科医はそういう手術のサポートをしていた。泣き沈む17歳の女性に「大丈夫、ちっとも心配いらないからね」と励まして手術を受けさせ、そして彼女は死んでいった。大勢の患者が自分を信じて手術を受け、死亡した。患者の言葉が自分の心に強く突き刺さる。 それより逆のぼること十年、大学病院では心臓外科の発展は患者の犠牲の結果であるとされ、成功率が低いにもかかわらず根治手術がどんどん選択されていた。そのおかげで、今日では、多くの患者が救われるようになった。結果的に正しかったが疑問が残る。 内科医は、「患者の意思はどこまで反映されたのか?」という疑問を残しながらも、医術の進歩は患者の犠牲の上に成り立つものだから、医療が常に患者の味方ではあり得ない。この問題はあらゆる医療の宿命として、これからも続いていくと自ら言いきかせる。 言っているのは50歳を超える立派な中堅医師である。これまで何を考えながら医者をやってきたのだろうか。xxx思考の誤りもさることながら、思い込みが激しくパターン化された発想にあきれると同時に、朝日が何故これを大々的に取り上げたのかが理解できない。 朝日は、この医師の当時の医局を知る何人かの医師を取材し、彼らの言葉を添えている。 「・・・・既存の治療の枠組みを超えようとしなければ、医療は進歩しない。・・・・」 「試してみる、ということがないと医療は進歩しない。・・・・手術の成功率がほとんどゼロでも、患者には『五分五分です』と言っていた」 こういう問題発言が軽々しく掲載される事実にも驚きと恐ろしさを覚える。 世間では薬害エイズ事件で、安部英被告に無罪判決が言い渡され、被害者や関係者がショックを受けている。この時期に、「患者の犠牲がなければ医学の進歩はない」という被害者の感情を逆なでする命題に、論考することもなく、感傷論と、一部の限られた人たちの考え方を紹介することで一時的にせよ紙面を終えることは許されないことだ。 翌日の紙面には手紙に対する3人のコメントが紹介された。 全国心臓病の子供を守る会会長・佐藤幸枝さんは、「成功率1%は犠牲でなく希望と思いたい。黙って死を待つより、『希望』と考えて手術を選択しています。」という。 ただ黙って死ぬよりは、危険性の高い手術に希望を託す。それはわかる。だが、これは、医師の側が、患者のために最善の努力をするからであって、これを患者の犠牲とはいわない。 慶応大学病院外科医・古川俊治さんは「患者さんの同意があればよかった」と述べ、柳田邦男さんは、今は「自己決定権」の時代。昔は10年で進歩したことが、これからは30年かかっても仕方ない。医療の進歩は、医師と患者が相互理解の上で一緒に作っていくものだという趣旨のコメントを述べている。 この二人のコメントは、患者の同意が得られれば患者の犠牲も正当化できる、としてもよいだろう。 患者の同意とは、患者の自己決定のこととされている。90年代に患者の自己決定権が主張され始めて以来、患者の同意が絶対視されるようになった。同意さえ得られれば、何事も正当化される。このことは逆に、実験的手術をする医者たちに利用されている。 この「同意」という言葉を取り立てて強調することにも危うさを感じる。過去になされた実験的な手術も、全て同意の上でなされている。同意なんてものはどうにでもつくれるものだ。 「同意」の問題については5章でさらに詳しく論じることとし、ひとまず朝日の特集を追ってみよう。 2.「患者の犠牲」には二種類ある いまだかって、「医療に患者の犠牲が必要だ」などと正面きって堂々と活字にされたことはないだろう。目の前の患者を犠牲にするとわかって医療が行われたことはない。医療者がひたすら患者を救うために尽くしても、結果的によくなかったことはたびたびあった。それが経験になって医療は進歩してきた。患者の犠牲が最初から求められるのではない。後からわかるのである。少なくとも建前ではそうであった。 特集の3回目は内科医と二人の女性読者との座談会の様子が紹介された。 その中で内科医は、患者の犠牲には2種類あると言っている。一つは医者の名誉や論文のための手術や検査による犠牲、もう一つは、これ以外助かる見込みはないとしてリスクを覚悟で手術を受け、その結果、期待通りにはならずに被る犠牲である。 医療技術は経験の上で進歩する。その実践の医療が、患者のために行われるのか、医師のためにおこなわれるのかが問題なのである。患者を救うために行われた医療は、例え結果が悪くても、患者も家族も、医師自らも納得できる。このような「犠牲」を本来は犠牲とはいわない。「犠牲」といって混同すべきではない。 「医師のため」とは、医師の名誉や論文のためだけに限らない。製薬企業や医療産業の利益のためということも、医療システムを維持するためということをも広く包括する。他人の利益のために患者が犠牲にされる。これこそ正真正銘の「患者のほんとうの犠牲」である。 これら二つの「犠牲」をはっきり区別しないのは、「患者のほんとうの犠牲」を覆い隠し、あたかも患者のために行われるかのように装うためであろう。 医学の進歩はこれら二つの犠牲によってもたらされた。しかし、近年の抗がん剤の開発や新しい手術法の開発などの目覚しい進歩は、「データ目的」の人体実験など、「患者のほんとうの犠牲」によるところが大きい。世界の医療は、インフォームド・コンセントの名のもとにこの「患者のほんとうの犠牲」を容認してきたのである。 人体実験のあり方について、一九六四年、ヘルシンキ宣言が世界医師会によって採択された。そこでは、人体実験には、患者の「治療が目的」の実験と、純粋に「データが目的」の実験とがあり、医学の進歩のためには「データ目的」の人体実験もなくてはならないと明言している。患者や被験者の人権を擁護するために、だからこそインフォームド・コンセントが必要だ、と宣言しているのである。 「治療目的」とは「患者のため」になされるということであり、「データ目的」の実験とは患者や被験者の「ほんとうの犠牲」の上に成り立つものである。 その後、この「治療目的」と「データ目的」の二つがはっきりと区別されることはなくなった。日本で98年に全面改正された臨床試験のガイドライン(新GCP)においても、その区別はない。 人体実験については、4章で「医学の進歩」という観点からさらに触れたい。 3.そもそも医療は目前の患者のためのものである 動物の世界では弱いものは見捨てられるが、人間は、余裕があれば弱いものや、病気で苦しむものたちを見捨てないで寄り添った。 そこに医療は誕生した。そもそも医療の原点は隣人愛にある。だから、もし隣人に犠牲を強いることがあれば、それは医療ではない。 医療を裏付ける科学が医学である。だから「患者の犠牲がなければ医学の進歩はない」というのは本末転倒である。医学は決して人間生物学やライフサイエンスの一部ではない。 医療における隣人愛とは目の前の患者に寄り添うことであって、決して地球の裏側にいる人を助けることや、十年後の患者を救うことではない。グローバルな人類愛を説く人たちは、隣人愛とは隣人エゴのことだというかもしれないが、医学とはもともと隣人エゴそのものなのである。 もし、医療の原点が隣人愛にとどまらず、グローバルな人間愛だなどというのなら、医療の不平等こそ許されるべきではない。世界中の医者は、豊かな国の恵まれた病院での医療に満足してはいけないのであって、すぐにソマリアやルワンダに飛んでいかなければならなくなる。 あるいは、「最新医療」という、ごく一部の患者だけが恩恵を受けるものに満足するのではなく、薬害などの医療被害者や、医療過疎地の患者、経済的事情で満足な医療を受けられない患者たちのために、まず先に力を注がなければならなくなる。 「医学の進歩」と「患者の犠牲」を並べるのは、崇高な人間愛をほのめかすことによって、隣人エゴを排斥するように仕組まれている。「医学の進歩」という言葉は、グローバルな人間愛を装うが、現実は、目前の患者に犠牲を強いるし、医療の不平等にも目をつぶらせている。 医療も医学も、もともと不平等なものだ。見たこともない患者には関心がなくても、目前の隣人を見捨てることができないのである。 地球が狭くなり、情報通信が発達した。今は地球の裏側も遠い別世界ではなくなったとされる。もし、ソマリヤやルワンダの人たちが隣人となるなら、医学の課題は、既存の医学技術をフル活躍させ、医療を平等にすることとなる。隣人たちの間で、金がなけれな手術もできない、生まれた国によって患者の運命が決められる、こんな理不尽なことはあってはならない。 これに対して、最新の手術や新しい治療薬などの「医学の進歩」は無力である。それでも先端医学の推進者たちは節操もなく「医学の進歩が人類を救う」とうそぶいている。 医療者にとって、隣人とは目前の患者のことである。全人類や将来の人たちが医療の対象ではない。だから、「医学の進歩のためには患者を犠牲にしなければならない」という言葉は、本末転倒なのである。 朝日のこの特集は、その後、「本当に必要な手術だったのか」などを内容に数回を経て、5月30日、読者からの投書を紹介して終わった。150通の投書が寄せられ、そのうち3分の1が医師からのものであった。 最終回もなお問題発言のオンパレードであった。最も驚かされたのは、外科医が腕を上げるためには患者の犠牲はやむをえないというものである。これをコメントなしで掲載するということは、朝日はそういう立場にあるということであろう。 外科医は手術経験を積み重ねて技術を磨く。始めての手術がどの医者にでもある。しかし「今日始めて手術するんです」と言われたんじゃ、患者はたまったものではない。そういうことを敢えて言わないのは医者としての心遣いである。しかし、これは患者を犠牲にするということではない。どうにもならないことをいって患者を不安にさせることは避けなくてはならないのである。 新人外科医は何十回と手術を見学し、やがて手術助手を務める。もう自分でもできそうだと思っても、やらせてもらえない。自分でやりたくてウズウズする。それでも許可されない。手術助手をつとめるときは、自分が執刀する気になって、手は動かないが、イメージの中ででは自分の手が動いている。それを繰りかえして、指導医がこいつはもう大丈夫だと太鼓判を押して始めて、執刀が許される。始めての手術は指導医が助手をつとめながら見守る。 始めての手術といえども自身に満ちている。それでも万端の注意を払う。だから、初めての手術は患者が犠牲になるどころか、ベテランのマンネリ化した手術よりも緊張していて、患者にとってはありがたい。 外科の手術というものは「今日は、皮膚を縫い合わせるとこだけやってもらおう」とか「今日は止血をやってもらうよ」という具合に、新人の力量に合わせながら、少しずつ段階的に教育されるのである。始めての手術といえども、全てが始めてということではない。 始めての検査や、始めての主治医、始めての採血でも同じことである。患者に満足してもらおうと必死になっている新人医師にみてもらうことは、患者にとって決して犠牲ではない。 ただし、データ目的の実験的な始めての手術は、このように正当化することはできない。患者の犠牲を始めから計画しているのだからだ。同じように、外科医としての修練を手抜きし、それを患者に背負わせるような始めての手術も許されない。 「患者の犠牲がなければ、医者は育たない」という言葉も、始めから主張されるのはおかしい。そこには、患者の犠牲を正当化しようとする思惑が見える。医者の心構えとして大切なことは、「患者を犠牲にするのは仕方がない」と決めるのではなく、「絶対に患者を犠牲にすることがあってはならない」と常に言い聞かせることである。 4.「医学の進歩」にも二つある 百年前なら感染症で人々はばたばたと死んでいったが。それが今日では、抗生物質のお陰で感染症で死ぬことはほとんどなくなった。十年前までは不治の病だった白血病も、抗がん剤の進歩で今では大部分の患者が助かるようになった。これらは誰にとってもありがたい。このような進歩はまぎれもなく医学の進歩といってよい。 昔は自分で食事が採れなくなれば数日の内に弱って死んでいったはずものが、今日では強制的な栄養補給と体液管理によって、身体中を管につながれ苦しみながら、いつまでも生き長らえるようになった。 臓器が確保されないことが明白なのにもかかわらず、臓器移植で助かると移植医療の進歩が宣伝されている。どうしても移植を受けたい患者は海外に渡る。その費用を集められない大多数の患者たちは、自らの不幸を嘆いている。 患者の苦しみを増やすことや、いたずらに患者をまどわすことが医学の進歩といえるのだろうか。医学は患者に幸せをもたらすものでなければならないはずだ。患者に幸せをもたらすものを正真正銘の「医学の進歩」とするなら、患者を不幸にするものは「医学の進歩の幻想」にすぎない。「医学の進歩と患者の犠牲」を考えるうえで、この「医学の進歩の幻想」をはっきりさせることが鍵となる。 「医学の進歩の幻想」とは、一体誰が、何ゆえにつくり上げたものなのか。「医学の進歩」という美名のもとで、患者を不幸に落としいれ、一部の者たちが利益をむさぼっている。 「医学の進歩」のためといっている研究の大部分は、研究者の功名心を満足させるためのものだ。その研究の評価は、国民や患者がするのではない。アカデミズムという名の専門集団がするのだが、アカデミズムは決して独立した存在ではない。権威者たちが支配し、その権威者たちも企業などから提供される研究費に依存している。ということは、評価を受ける研究とはスポンサーが喜ぶ研究であり、それは市場性がある研究ということになる。 研究にも流行がある。企業の栄華衰退を反映している。今の流行は、さしづめ遺伝子診断や遺伝子治療に関わる領域、免疫、移植、組織再生といったところであろう。新しいクスリに関する研究は常にもてはやされる。要は企業がとびつく領域しか、研究は評価されないし、研究を推し進めることすらできない。 研究者たちがいう「医学の進歩」とは、「医学の進歩の幻想」であって、実際はスポンサー企業の繁栄という意味でしかない。患者は、「医学の進歩」のために犠牲になるのではなく、「医学の進歩の幻想」のために犠牲にされるのである。 今や世界的規模で、「医学の進歩の幻想」のために患者を犠牲にするシステムが出来上がっている。世界中で「医学の進歩の幻想」のために人体実験が行われているのだ。 人体実験を、医療の現場で手っ取り早く効率よくやろうとするのが「臨床試験」である。多くは新薬の開発販売が目的だから、スポンサー企業の利益追求のためであって、患者のためではない。 患者の自己決定権を尊重するはずのインフォームド・コンセントは、実は「臨床試験」を効果的に進めるためのものなのである。その起源になっている、ニュールンベルグ綱領もヘルシンキ宣言も、「医学の進歩のために被験者の犠牲はやむを得ない、十分補償されればよい」という趣旨をうたっている。xxx 大戦終結前のナチスの行ったあの忌まわしい非人道的医療行為は、ニュールンベルグで十分裁かれ、人類は二度と同じ過ちは繰り返さないと反省されたことになっている。 ところが、実際は反省などはなかった。裁かれたのはナチスであって、非人道的医療行為は反省されてはいない。その証拠に、裁いた側を指揮したはずのアメリカでは、その後も梅毒感染実験や、兵士による原爆被爆実験、プルトニウムの人体への注射実験がなされている。 アメリカという国は、一部の人間が資本力にものをいわせてメディアを支配し大衆を操り、見せかけのヒューマニズムを看板に国を動かす。 彼らがニュールンベルグでもくろんだのは、戦後の世界で、利益を享受できる体制の確立であったのだ。そのため、ナチスは断罪されたが、日本を含め、他の国の非人道的医療行為は不問にされた。とことんまで追求すればやぶ蛇となった。患者や庶民の犠牲なくして甘い汁は吸えない。 そのお陰で、毒ガス兵器のマスタードガスから、ナイトロージェン・マスタードという最初の抗がん剤を誕生させることができた。まさに人体実験の成果である。 だから、その結果生まれた戦後の医療体制は、建前は民主的で人道的であるかのように装うが、本質は戦前の思想発想をそのまま引き継いでいるのである。この戦後アメリカを中心とする世界の医療体制をニュールンベルグ医療体制と呼びたい。ニュールンベルグ医療体制のもとでは、「医学の進歩」という言葉は、企業や少数の特権階級の商売繁盛の意味でしかない。xxx ニュールンベルグ体制のもとで、日本の七三一部隊の非人道行為も不問にされた。戦前の医療がそのまま。xx七三一の生き残りがみどり十字をつくり、内務省は厚生省になった。大学の研究者たちはそのまま大学に残った。その結果が、みどり十字、厚生省、帝京大の薬害エイズの三ルートとなった。薬害エイズ事件は、その一端が表に出たものにすぎない。 「医学の進歩のために患者の犠牲はやむを得ない」の発想は、七三一から何ら反省されることもなく延々と引き継がれているのである。 七三一の発想が戦後も医学界を支配している。育てる人間が変わらなければ、医者は変わらない。医者は生きるために、現実の医療システムに順応してゆかねばならない。ときどき風変わりな医者が出てくると、執拗に排除される。そのシステムを変えなければ、医者は変わらないし医療被害はなくならない。 5.十分な説明と同意があれば、患者の犠牲は許されるのか 「十分な説明があれば、患者も家族も納得する」といわれる。しかし、「十分な説明」も幻想であって、実態はない。医者にとっては「十分な説明」でも、結果が悪ければ患者にとって「十分」ではなかったことになる。 患者家族が「成功率1%が希望になる」と紙面で述べている。これはトリックだ。治療の手立てがないと説明されて絶望の淵にいる患者に、「1%の望みがある」といえば、とびつくのは当然である。本当に治療の手立てがないのか、何を根拠に1%なのかを問題にしなければならない。 可能な限り悪く説明し、患者や家族を絶望させ、それから「かすかな望みがある」と希望の光を示す。これは、医者が患者や家族に治療方針を受け入れさせるときの常套手段である。 おどして、すかして、「助かる道はこれしかない」と最後に救いの手を差し伸べるのは、悪徳商法のお決まりの手口だ。医者は同じことをやっているのである。希望の光といえども「1%」に抑えている後で責任追及されないように、。こんな数字に根拠はない。 本人も家族も「無駄死に」や「犠牲」は決して望まない。たとえ助からなくても、可能性にかけたとなれば納得がいく。医者はそれにすっかりおんぶしてしまっているのである。 自己決定権という言葉が流行しているが、自己決定権という人権は、医療現場では決して保障されることはない。膨大な情報と複雑な医療システムの中では、患者はあたかも自立できない子供と同じだ。自己決定権は自立したものだけが享受できるのである。患者はシステムに流される。そこでは、患者の自己決定すらシステム化されているのである。 もし患者が自らの意思で自己犠牲の選択をしたなら、医療者は思いとどまるよう説得すべきである。 何故か。 その理由は二つある。一つは、患者は自立した存在ではないからであり、もう一つは、医療の原点は隣人愛だからである。目前の患者の幸せを願うのが医療なのだ。自己犠牲の自己決定を許してはならないのは、自殺の自己決定を許してはならないのと同じである。 「ある内科医の手紙」から始まった特集は終わった。朝日は、医師と患者の関係を改めて考えるきっかけになったしている。最終回で筆者の意見投書もほんのさわりだけだが紹介された。だがそれと並んで、患者を不安にさせる問題発言も何の解説もなく紹介されていた。 ある大学病院内科から、「たまには外科にも回さないと」といって心臓バイパス手術の患者を経験の乏しい外科に送った。外科では無理な手術をして患者を死なせた。投書した医師は「泣き崩れる奥さんの姿が今でも鮮明に浮かんできます。」という。 医師の技術の向上について 秋田県の開業医は「残念ながら、全く患者の犠牲がなく医師個人の技量が進歩する、ということはあり得ません。心臓カテーテルや内視鏡でも、医師になりたての頃は患者さんに苦しい思いをさせますが、それを乗り越えてこそ、だんだん腕を上げていくのではないでしょうか」xxx 朝日はこれらを当然のことのように認識しているということだ。どう考えたらよいのかは既に述べたので繰り返す必要はないだろう。 特集のきっかけとなった内科医の言葉があった。 「長い医療生活の中でマヒしたものを呼び覚まされた思いです。医師たちは、時間とともに医療界に染まってくる。患者さんと話すことで、医師は昔の自分に戻れるのではないでしょうか」 現実の医療システムにどっぷり組み入れられた医師たちにとっては、この問題を真剣に考える余裕も機会もないのである。「医師たちは染まっていく」ではなく「染まってくる」といっているところが意味深い。この内科医を含め、ひ弱になった医師たちはそういう医療界に属さなければ、医師として生きていけないということである。 ではどうすべきなのか。 当然のことながら、課題は医療者の意識改革であり、システムの改革である。そのためには、歴史をさかのぼって、過去の徹底検証が必要である。歴史の反省は、歴史教科書や従軍慰安婦だけが問題になるのではない。医療においても共通する問題なのだ。 |
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| 朝日新聞 6月22日 くらしの欄 ・インフォームド・コンセント・ に対する意見 名取 00/6/27 |
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昨年ごろから、インフォームド・コンセントに関する記事は新聞、雑誌から影を潜めています。それは、インフォームド・コンセントに関するこれまでの浅薄な理解に対する反省があったからだと思って降ります。 どれも、真面目に問題を考えようとしている医師に対し、悪意に満ちています。あまりの偏狭さ驚きます。この記事を書くために、筆者はどれほど準備をしたのでしょうか。 書出しの「乳癌でないのに乳房切断」の問題は、これはインフォームド・コンセントの問題ではありません。誤診や医療過誤の問題です。 >当初、改正案にはインフォームド・コンセントの概念が盛り込まれていたが、「付則」に「・・・必要な措置を講ずる」などが加えられただけだった。 >医療現場に反発があったのは事実。 現場の医療は、はっきりした基準を設けられないのが実状です。がんは告知するのが患者のためという考えは一般的になりましたが、なお、100%の一律がん告知は、日本では受け入れられていません。いろんな情況がありケース・バイ・ケースです。 インフォームド・コンセントをどうとらえるかは政策理念の根本から出てくる問題なのです。医師が患者にあらゆる情報を説明することはできません。最低ラインの説明の範囲という基準を設けるとき、そこに政策が反映されます。 今世間は、自由化、弱者切り捨ての政策と、平等と共感、福祉重視の政策という二大政策理念がぶつかり合っています。自由化の声が伸張する中で、朝日新聞の主張はどちらかといえば、後者の立場からその風潮に歯止めをかける役割をはたしてきたと理解しております。 |
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| 朝日新聞6月9、10、11日掲載の医療不信[上]、[中]、[下]は、患者や医師の苦悩を理解していない。 名取 00/6/22 |
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朝日新聞くらし編集部 医療不信、[上]、[中]、[下](朝日新聞6月9、10、11日掲載)を拝読いたしました。 私はここ10年以上、医療不信、患者と医者の関係改善を考え続けてきましたが、今回のいつも通りで紋切型の3回記事にも、当然の如く物足りなさを感じ、患者や医師たちへの理解のなさには怒りを覚えます。 まず[上]、「密室医療という古い体質に穴が開き始めていることは確かだ」と相変わらず事例を第三者的に紹介している。密室医療という古い体質がなおも存続しているのはお前たちメディアがさぼっているからではないのかと言いたい。密室医療という一つのテーマを取り上げるにしても、新聞は新聞としてどのように関わってきたかを問いたい。 第2回[中]は医局のピラミッド社会、教授頂点の組織のかばい合いシステムについて述べられていたが、30年前の『白い巨塔』時代から何も変わっていないということを忘れてもらっては困る。問題の本質はそこにある、と言ってそれで済まして終わってしまうというお決まりのパターンなのである。 最後のまとめ[下]は、これまたお決まり通り、「患者も医師も、もっともっと声を上げていくことで、医療はよい方向へ向って行くのではないか」で終わっている。 医師が声を上げていないだと? これには怒りを覚える。声を上げる善良な医師たちを医学会という権威とつるんで一貫して無視し続けているのがマスコミではないか。 最近、真面目な医師たちにとってたのもしい味方が出現した。インターネットだ。医局の表も裏も知る医師たちが、これをどう使いこなすかが期待される。何しろ、一消費者が大企業の東芝を屈伏させる威力があるのだから。 |
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